蕎麦屋

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【小説】濡れ牡丹

 どぷ、という音がして、何かが溢れてきた。怖くて、そっとそこに触ると、指先にぬるぬるした粘液がついた。その指を、恐る恐る鼻先に持って行ったり、舌に乗せたりした。ヘンなにおいがしたし、ヘンな味がした。きっとこれは、私の中身が腐って出てきたんだと思った。

 


 初恋は中学生のときだった。同じクラスの、特に仲が良かったわけでもない女の子に恋をした。分厚い眼鏡と長い前髪で目元を隠し、猫背で本を抱きかかえるようにして歩く、いかにも根暗という感じの女の子だった。
 日時も学年も、正確には覚えていない。ただ、たまたま私がトイレの前を横切ったとき、手に持ったポーチを一心不乱にまさぐる彼女がいたことだけ、覚えている。顔と名前くらいは知っている仲だったし、その姿があまりにも必死で、今にも泣きだしそうだったので、気の毒になって、私から話しかけたのだった。
「どうしたの」
 背後から声をかけられて、彼女は可哀そうなくらい肩を震わせ、驚いて、振り向いた。
「あっ……え、と」
「なんか探してたから。落とし物?」
「あ、な、……を、忘れちゃって……」
「えっと、ごめん、今なんて言った?」
「あの、生理、なったから……」
 私はハッと息をのんだ。当時、私は既に初潮を迎えていたので、彼女が忘れたと言っているものに、察しがついた。
「私、持ってるから」
「えっ……」
「教室にあるの。待ってて。とってくる」
 彼女はひどくうろたえた。ああ、とか、いや、とか、もごもごと遠慮の言葉を探していたようだが、私がさっさと教室からひとつのポーチをとってきてしまったのを見て、観念したようにペコリと頭を下げた。
 ポーチから白い包みをいくつか取り出し、手渡すと、彼女はこれまたペコペコと何度も頭を下げ、トイレの個室に入っていった。
 扉を閉める瞬間、彼女はまた小さくお辞儀をした。

 

 その日の放課後、私は、彼女の経血がべっとりと付着したそれを、回収した。

 

 私が彼女に貸してあげたものだから、私が回収するのは当たり前だと思った。とってくる、とは言ったが、あげる、とは言っていない。貸してやって、彼女が使い終わったから、私の手元に戻った。それだけ。
 花柄の包装紙に丁寧にくるまれたそれを触ると、まだ少し暖かいような気がして、ドキドキした。元々、私は他人の生理というものに興味があった。包装紙を留めているテープを、早く剥がしてみたかったけれど、まずは、そのまま光に透かしたり、そっと手の中に収めてみたりした。紙がカサカサと鳴るばかりで、外側からは赤い色はどこにも見当たらず、本当にこの中に彼女の、経血が、収まっているのだろうかと少し不安になった。
 いよいよテープを人差し指と親指でつまんで、上向きに引っ張ると、ペリペリと簡単にはがれた。一度剥がしたものを、また付け直しているのだから、こんなに簡単に開いてしまうのは当然なのだけれど、なんだか私のこの行為を受け入れてくれているような気がして、頬にカッカと熱が上ってしまった。
 テープが外れると、あとはもう勝手に開いた。閉じ込められていた赤色が一気に放たれ、クラッときた。表面の凹凸に沿って、熟れたイチゴをつぶしたような、赤。
 牡丹みたいだった。包装紙にプリントされた絵の花も、そのへんに生えている花も、世界中のぜんぶの花が嘘っぱちで、この奇麗に咲いた牡丹だけが本当の花なんだと思った。
 その牡丹は、鼻を擦り付けると酸っぱい香りがしたし、ちう、と吸い付くと、下腹部が痺れるような味の蜜が滴った。私は牡丹を、舐めたり、擦ったり、自分のにあてがったりして、最後に、それで自慰をしたあと、何重にも袋をかけて、家のゴミ箱に捨てた。

 

 次の日、彼女はお礼にとクッキーをくれた。昨日はありがとうと、やっぱりもぞもぞとした小さな声で彼女は告げたが、肝心の私は、ラッピングに使われたリボンの見事な赤色を見ているうちに、お前のやったことは知っているぞ、これは脅しだぞ、と言われているような気がしてきて、ああ、いや、などと、ヘンな返事しかできなかった。
 家に帰って、このクッキーを私が受け取ってしまうのは、なんだか申し訳ない気がしてきたので、妹にそのままあげた。すると妹が、存外嬉しそうな声を上げたので、理由を尋ねると
「だってお姉ちゃん、これ、すごく良いところのだよ。そのへんのクッキーとは、訳がちがうよ」
 なるほど確かによく見れば、貼ってあるラベルに見覚えがあった。この辺りで有名な、老舗の銘菓店のものだったはずだ。
 そうなるといよいよ貰いすぎているような、罪悪感に似た負い目が湧き出てきて、翌日になって私は、お礼のお礼というおかしな理由をつけて、コンビニで買ったチョコレート菓子を彼女にあげた。
 彼女は一瞬ポカンとしたあと、大きな声で笑い始めた。彼女の笑い顔を見るのは初めてだったので、驚いた。しばらくして笑いが収まると、彼女は、じゃあまた明日、お礼のお礼のお礼を持ってくるね、と言った。
「いや、それは困る。これは、私が貰いすぎてただけだから」
「でも、ナプキンって結構高いものだから、あれぐらい渡さないと、私の気が済まなくって。だから、それを受け取ってしまうと、今度は私が貰いすぎになっちゃうし」
 それに、と彼女は続けた。それに、そのまたお礼を、あなたが私にくれればいいでしょう、と。
 私は、彼女の唇がナプキン、と動いた瞬間、ぽーっと頬に熱がいってしまって、なんだかよくわからないまま、うん、じゃあ、それで、と答えてしまった。
それが私の、いわゆる初恋だった。

 

 それから彼女は、本当に一日おきにお礼だなんだと菓子を持ってきて、私もそれに返し続けた。一年もすると、思い出したように片方が持ってきた菓子を、二人でつまみながら、なんとなく駄弁るだけになっていたが、とにかく私たちの不思議な関係はそれなりに続いた。
 私たちの会話は、周りからは特異に見えただろう。私たちは、趣味も嗜好も異なっていたし、意見が食い違うこともしばしばあった。それでもその関係は、決して息苦しくはなかった。むしろ、私があなただったら確かにそんな風に考えただろうし、私と違う選択をするあなたが好きだ、というような、お互いを理解しすぎた故のすれ違いだった。私と彼女の間では、無理に相手に合わせてうそわらいをすることも、自分と相手の意見がすれ違うのにビクビクすることも、不要だった。それ故に、私のこの汚い中身をひた隠しにしなければならないのは、辛かったし、申し訳なかった。

 ある日私が、ドビュッシーの月よりベートーヴェンの月の方が好きだと言うとき、彼女はドビュッシーの方が好きだと言った。
ドビュッシーの月は、高潔で、寂しくて、でもキラキラと明るくて、素敵よ」
「そんなのウソの月な気がする。本当の月はもっと憂鬱なじゃないかな」
「ウソでもいいの! ウソでも、それが私を満たしてくれて、私が信じられれば、それはホントなるもの。素敵なウソがホントになれば、素敵なホントよ」
「ウーンそうかなあ」
 誰も弾いていないはずのベートーヴェンの『月光』が耳元をかすめる。口に綿がいっぱいに詰まって、息ができなくなるような、重い旋律。聞いていると辛くなってきて、やめたくなるが、惹かれてやまず、どうしても聞き入ってしまう。美しいから好かれるのではなく、重苦しいまま、その重苦しさが人を魅了する。やっぱり月は、そういうものだろう。
 私が黙り込んでしまったのを見て、彼女はフッと吹き出した。
「なんだかあなたは、ドビュッシーの月みたいな人ね」
 どういう意味だろうと思った。


 彼女の牡丹に触れたのは、あれきりだった。自分が貸したものではないから、というのももちろんあったが、彼女の純真さに触れていると、自分の汚らしさを否応なく見せつけられ、これ以上自分から罪を増やす気にはなれなかったからだ。ただ、一ヶ月に一度、彼女から蜜の香りがツンと漂い始めると、彼女の牡丹にまた触れたい、彼女の生理を見てみたいという思いは、むくむくと大きく膨れ上がったので、私が根元から綺麗になったというわけでは全くなかった。

 

 中学生生活に終わりの足音が近づき始めた頃、私は彼女に告白をした。
 告白というと大層なものに聞こえるが、ただ、放課後の、夕日で真っ赤に染まった教室で、あなたが好きよ、とかすかに呟いただけだった。彼女は大きく目を見開いたが、私が何時にも増して真剣な顔をしているのを見て、じゃあキスをしましょうか、とおどけて言った。
 私は、彼女が、私と同じ気持ちであったことを知った。
 心の中が喜びでいっぱいになって、牡丹だとか、生理だとか、そんなのはどうでもいい、そんなのなくても、彼女を愛そうと決意した。うん、と言って、彼女の頬に指先で触れた。初めて会ったときと髪型は随分変わっていて、今のショートボブは、彼女のくりくりとした黒目をしっかりと露わにしていた。その瞳をのぞき込むと、夕日の光が映り込んで、小さな赤い花がチラチラと咲いていた。
 私たちはキスをした。
 一瞬で過ぎ去る、永遠のキスだった。
 そっと顔を離すと、彼女はしばらく放心したように空を見つめていた。そして、ふと、まだ濡れている唇を小さく動かして、
「切ない」
とだけ言った。
 その瞬間、全てがダメになった。
 私は、自分がどれだけ汚れた人間であったかを思い出したし、同時に、彼女を汚してしまった、と思った。私が口から彼女に入り込み、腹の中で暴れまわって、彼女の牡丹を散らしてしまったらどうしようと思った。彼女の濡れた唇があの牡丹の花と重なって、私の目をつかんで、離さなかった。
 ——生理を見せてほしいの。
 ——あなたのオマタから、マッカな経血がドロドロと流れ出るところを、直に見せてほしいの。
 私の中は、そんな気持ちの悪い、粘着質な感情でいっぱいであることを、思い出した。
 夕日の赤が、瞳の花の赤が、彼女の唇の赤が、大きくなったり小さくなったりして、私を責めたてた。——お前は汚い、お前の中身を知ったら、彼女はどれだけ傷つき、どれだけの嫌悪感を示すだろう、お前が触れることで、彼女はどれだけ汚れるだろう——
 私はたまらず教室を飛び出した。
 それから、彼女と顔を合わせることはなくなった。

 


 高校生になって、私は多くのセックス・パートナーを作った。相手は年上の女性であることが多かったが、同じくらいの歳の男性とも、関係を持つこともあった。
 彼女は、私と同じ高校に入学したらしいが、避けられているのか、私がほとんど学校に行っていなかったせいか、見かけることはなかった。
 私はそれで良いと思っていた。彼女はきっと新しい友達をつくることができるだろうし、私の方も、満足とは言わずとも、それなりの充足感を得ていた。あの鮮烈な牡丹の赤色を夢に見る日もあったが、その記憶も徐々に薄れつつあった。
 そんな折だった。彼女が私を呼び出したのは。

 

 彼女は、最後に別れたときから、また様子を変えていた。あの時の彼女は、自信に溢れた、いわゆる魅力的な女子といった相貌をしていたが、今の彼女は、最初に出会ったときの、おどおどとした子リスのような女子生徒に逆戻りしていた。

 ただ、あの日と変わらない、ツンとした蜜の匂いがかすかに漂ってきて、ああ、生理だ、と意識せずにはいられなかった。
 彼女は私の顔色をうかがいながら、長い間口ごもっていたが、私の方からは何も切り出さないのを見て、観念したように口を開いた。
「……私のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
「じゃ、じゃあ、その、私と、き、……したことは」
彼女がなんと言ったのか、聞き取れなかったが、今度は聞き返すことなく察することはできた。
「あなたとキスしたことも、あなたに好きと言ったことも、覚えてるよ」
「じゃあ……なんで……」
「なんでだろうね」
 今度こそ、彼女は黙り込んでしまった。私はなんだかイライラしてきて、全部ぶちまけてしまおう、と思った。
 ねえ、と言うと、彼女はビクリと顔を上げた。ねえ、私ね、あなたの使用済みナプキンを盗んだことがあるのよ。初めて会ったときに。覚えてる? 私があなたに、ナプキンをあげたの。それで、そのあと、ゴミとして回収される前に、私が盗っちゃった。なんでって、なんでだろうね。見てみたかったの、他の人の経血は、私のと違って、綺麗なのかどうか。あなたの経血は、すごく綺麗だったの。まるで牡丹みたいでね。私、それにもうホレボレしちゃって、だからあなたが好きになった。嫌でしょう? 気持ち悪いでしょう? 私ね、あなたの経血で、マスターベーションもした。私は、あなたが思っているような人間じゃない。だから忘れなさい。私のことは、自分をいやらしい目で見ていた、汚い変態だと思って、忘れて。それがいい。それが一番いい。
 一息に言い切ると、喉の奥がギュウっと締まった。彼女はただ茫然としていた。その隙に、さようなら、と言って立ち去ろうとしたが、ハッと彼女は首を振って、両手で私の制服を引っ張った。
 それでもあなたが好き、と彼女は叫んだ。
「そんなの、全然許せるし、そんなの差し引いても、あなたは十分『いい人』じゃない。私、あなたが好きよ。あなたの隣にいると、心が安らぐの、ねえ、お願い、好きなのよ」
 彼女の一言ひとことを聞いていくうちに、ドンドン腹の底が冷えていくのを感じた。
 私は、自分が「いい人」ではないことを知っていた。私は私が、自分の父親の手と、性器によって、汚されていることを知っていた。
 今の父親は、本当の父親ではなかった。本当の父親は、私が小学生のときに母と離婚し、それきりだ。
 今の父親は、私が中学生になって、身体が成熟し始めると、毎晩寝室にやってくるようになった。一番初めにそれが起こった日に、恐怖から寝たフリを続けたのが、良くなかった。味をしめた父は、次の日も、そのまた次の日も、夜になると寝室にやってきて、私を犯すようになった。私が起きていることには気づいていたようだが、母は止めなかったし、私も何も言わなかったので、それが日課のようになってしまった。
 私の腹の中には父親の精液が染み込んでいて、どろどろに腐って、私とないまぜになって排出されている。私にとって生理とはそういうものだったし、だから私の経血は、彼女のような美しい牡丹にはならなかった。
 もし彼女か私を「いい人」と称するなら、それは、彼女が嘘をついているか、彼女が私の嘘に騙されているか、どちらかでしか無い。
 私は「いい人」ではなかった。それでも、愛してほしかった。「いい人」ではないままで、「いい人」ではない私を、愛してほしかった。「いい人」ではない私を、嫌いなままで、好きであってほしかった。
 彼女が見ている私は、結局、「私」じゃなくて、「私のようななにか」だった。
 私の制服にすがりついてわんわん泣く彼女に、もう何の感情も湧くことはなかった。私と彼女は、同じではなかったのだ。私は汚れていたし、彼女は清かった。私は彼女の内側から剥がれ落ちたものしか見ていなかったし、彼女は私の外側に張り付けたものしか見ていなかった。私は彼女が好きだったが、彼女が好きなのは私ではなかった。

 冷えた腹の底に、空っぽな言葉が反響する。

「じゃあ生理を見せて。一回だけでいい。そうすれば、ぜんぶウソにしてあげるから」

 彼女が、ハッと息を飲むのが聞こえた。顔をのぞき込むと、フルフルと色のない唇を震わせ、瞼を閉じたり、開けたりを、せわしなく繰り返していた。

「嫌ならいい」

「——あ、ちがう、ちがうの、嫌じゃない」

 彼女は、私の制服の袖を、よけい強く握りしめた。細い指先が真っ白になって、血の気を失っていた。皺になるな、と一瞬眉を顰める。

「あ、そ。じゃあ私の家に行きましょう。今はたぶん誰もいないから。そこで見せてよ。そしたら次は、どこか、ショッピングでも行きましょう。カフェでお茶をしてもいい。週末には、お互い精一杯のオシャレをして、遊園地に行くの。とにかく、二人の行きたい場所に行きましょう。ネエ、随分楽しそうじゃない。良かったわネエ」

 彼女は震えて動かなかったが、私がそっと手をとり、以前のように笑いかけてやると、頬を涙で濡らしながら、唇の端を引き上げて、それは楽しみね、と言った。

 

 

 牡丹の花は、落ちる。
 泥に濡れた牡丹を握りつぶして、肌をつたう、水滴と、甘い蜜を、舐め上げた。
 あの美しい牡丹は二度と咲かなかった。