蕎麦屋

非常によろしくない表現が含まれている可能性がある

三題噺『タオル』『退職』『旅館』

友人間で行った三題噺です。
ブログが寂しいので記録代わりに載せます。

制限時間:2時間
お題:タオル、退職、旅館




 五時間ほど夜行バスに揺られたあと、そこからしばらく山道を歩いた先に、その旅館はあった。シンプルな漆喰壁はところどころ黒く変色しており、相当な年月の経過を感じさせる。額の汗を掌で拭いながら辺りを見回す。人影は見当たらない。従業員はおろか、客らしき人間が居る様子もなく、丁寧に剪定された庭木が虚しく揺れていた。予約の電話を入れた際に従業員がこぼした「こんな辺鄙な所にわざわざ」という一言が頭をよぎる。辺鄙な所にわざわざ行きたがる変人は、私が思うよりずっと少ないらしい。
 キャリーバックを引く音を聞きつけてか、旅館の主人が慌てて飛び出してきた。腰を低く出迎えられ、非常に申し訳ない気持ちになる。まだ予約した時間には一時間ほど早い。どちらかと言えば落ち度は私の方にあるのだが、出迎えに出遅れた責任はこの主人が負わなければならないのだろう。その姿が会社での自分と重なって、私はいよいよ決意を深くした。
 やはり今夜だ。今夜死のう。

 出来損ないという人種は一定数存在するとは知っていたが、まさか自分がそうだとは思いもよらなかった。思い返せば、確かに自分は昔から容量が悪く、大学も浪人と留年を重ねて何とか卒業した口なのだが、社会に出ればもっと上手くやれるものと信じていた。だが現実はそうでも無い。競走に負け続けながらやっとの思いで手に入れた職も、たった半年で辞めてしまった。
 人間が最も深く絶望するのは、信じていたものに裏切られた時らしい。「自分にも出来ることがある」という希望に裏切られ、無意識に見下してきた人種こそが自分であったと知らされてなお楽観的でいられるほど、私は強くなかった。
 旅館の主人の背を眺めながら、これが最後か、とぼんやり考える。最後と思えばなかなか感慨深い――と感じられればよかったのだが、不思議なことに何の感傷も湧かない。むしろ、もう負けなくていい、という安堵が胸の底で燻って、自然と足取りが軽くなる程だった。
 部屋に着くと主人は丁寧にお辞儀をして下がっていった。期待はしていなかったが、なかなかいい旅館じゃないか。8畳ほどの和室はなかな落ち着いていて、ゆっくりとくつろぐには最適なように思えた。荷解きのあと障子を開けば、今晩飛び込むつもりの大きな滝が見える。じっと息を詰めて凝視していると、滝の落ちるごうごうという音が聞こえた気がした。
 今夜死のう。今晩飛び込もう。
 口の中で呟いていると、秘密の逢瀬を待ち望むお姫様のような心地がしてきて、なんだか身体がふわふわ軽くなった。

 夕食後、滝へ出掛ける用意をしていると、不意に部屋の扉がノックされた。
 慌てて開けば、主人がやはり平身低頭で突然の来訪を詫びた。私は企みがバレたのかと気が気ではない。自然とぶっきらぼうになる口で要件を尋ねると、何枚かのタオルを差し出されたので拍子抜けする。
 曰く、この旅館はもうすぐ閉鎖されるらしい。恐らく私が最後のお客になる。それもそうだろう。「こんな辺鄙な所にわざわざ」泊まりに来るお客なんて数が知れる。
 備品は全て売りに出す予定だが、ここから運び出す手数料を考えればどうせ大した儲けにもならない。従業員に配りもしているが、全て捌ききれるほどの人数も働いていない。旅の思い出だと思って、受け取ってくれませんか。今にも泣き出しそうに主人がタオルを差し出すので、困った。
 困ったというのは、最後なのはこの旅館だけではないからだ。むしろ私の最後の方が早くやって来る。なんたって今晩、私はあの滝に飛び込んで死ぬのだから。
 ああ、いえ、と口ごもっているうちに、主人は慌てて頭を下げた。そのまま踵を返して下がっていこうとするので、咄嗟に引き止める。
「ください」
 馬鹿みたいな四文字が情けなくて顔から火が出そうだ。人の気も知らずに、主人は涙を流して礼を述べた。
 出来損ないの私は死ぬことすらも出来ないらしい。腕に抱えたふかふかのまっさらなタオルが、なんだか憎らしくて仕方なくなった。