蕎麦屋

非常によろしくない表現が含まれている可能性がある

三題噺『梅干し』『線』『バス』

友人間で行った三題噺です。
ブログが寂しいので記録代わりに載せます。

制限時間:2時間
お題:梅干し、線、バス



 白線を踏む。車道と歩道を隔てるこの白線は、23センチのローファーを乗せるにはあまりに頼りなく、自然に一歩一歩が慎重になった。靴の裏に白線が順々と吸い込まれていく。高校に入学してすぐの頃はゲームみたいで楽しかったが、一年経った今では、これもただの習慣と化していた。楽しくもないなら普通に歩けばいいのだが、ずっと続けてきたのだしと思うとどうも辞めづらい。特に意味や意義があるわけではない、おまじないかジンクスみたいなものだ。
 スマホを取り出す。7時23分。今日もバスには乗れそうだ。バスが来る5分前にはバス停に着くだろう。そしたらいつものバスが来て、いつもの面子と顔を合わせて、いつも通り学校に行く。生徒の誰より疲れきった顔をした教師が出てきて、ダラダラと話を垂れ流し、聞いたような聞かなかったような気になりながらノルマを終えたらまたバスに乗る。多少窮屈でも我慢しなきゃいけない。道を踏み外さないよう慎重に歩くのが、幸せな人生を手に入れる唯一の方法なのだから。
 角のコンビニを曲がる。相変わらず白線は靴の裏にひっついてくれていた。あと数百メートルも歩けばバス停だ。私はホッと息をつく。今日も道を外れなかった。安心してまた一歩踏み出そうとした瞬間――
「すいません! すいません! つい出来心で!」
 目の前に人が転がり出てきた。驚いて後ずさった拍子に足が白線を外れる。
「すいませんで済んだら警察いらねんだよ! こっち来い!」
「すいません、許して、許してください」
 コンビニ店員らしい男が女の人を引っ立てている。女の人は地面にうずくまって、すいません、すいませんと必死に抵抗していた。
 「万引き」という言葉が頭に浮かんだ。咄嗟に周囲を見回す。止めようとする者は誰もいない。みんなザワザワと眺めるだけだ。そうする間に、店員は女の人の髪を掴み、店内に引きずり戻しかけている。
「――払います!」
 気づいた時には叫んでいた。店員も女の人も通行人も、一様にギョッとして顔を上げる。勇ましく声を上げたはいいものの、こんな風に視線を集めることに慣れていない私はたじろいだ。
「あ、あの……お金、私が払うので、許してあげてください。反省してるみたいですし、暴力は良くないって言いますし……」
 尻窄みな言葉にも効力はあったようで、もしくは冷静になって自分の言動を恥じたのか、店員は渋々と手を離した。話を聞いたところやはり万引きらしい。何を盗ったのかと思えば、パックの梅干し。お菓子やお弁当を想像していた私は拍子抜けした。
 1000円札を財布から出す。お釣りは要らないと伝えると、店員はあからさまに機嫌を良くした。やり取りの間、女の人は地べたに座り込んだまま、ぼうっと私の手元を眺めていた。自分よりふた周りほども年上のおばさんのためにお金を払うのは、当たり前だが初めてで、自分が素晴らしく勇気のある人間であるように感じてドキドキした。
 店員が店に戻ると、眺めていた通行人は途端に興味を失ったようで散り散りになった。あとでSNSに書かれたら嫌だな。一瞬後悔しかけたが、振り返ると女の人がポロポロと涙を流していたので、そんな心配も吹き飛んでしまった。
「あの、大丈夫ですか」
「……むすめが、娘が、お粥に梅干しが欲しいって」
「えっ」
「小学生なんです。風邪をひいてしまって。梅干しののったお粥がいいって言うので、お母さんが買ってきてあげるねって。お金が無くて、これくらい良いでしょうと思って」
 サラリーマンが彼女をチラリと見て、慌てて立ち去っていった。私だってそうしたい。こんな人の話なんて無視して、走ってバス停まで行って、いつも通り学校に行くのが正しいと分かっている。それなのに、白線の先に彼女が座り込んでいるせいで、私は前に進むことができない。
「私はどこで間違えましたか? 真面目にやってきたのに、結婚して子供を産んで旦那と協力して育てることが幸せだと聞いていたのに、どこで、道を……」
 そのあとは啜り泣くばかりで、言葉は続かなかった。乗るはずだったバスが横を通り過ぎる。陽の光を浴びて輝いていた白線に、私の形の影が落ちて、どこを歩けばいいのか私にはもう分からなかった。