蕎麦屋

非常によろしくない表現が含まれている可能性がある

【自創作の小説】枯淡虚静としていて

 見えない綿がギッチリと詰まっているかのように空気が淀む。机に伏せたままピクリとも動かない頭が、ざっと見ただけでも半数。残った半数はゆらゆらと上体を揺らしながらなんとか耐えており、その健気な姿は、寂れた喫茶店の隅で埃をかぶったフラワーロックを想起させた。水曜、五限、麗らかな春の陽気。寝ても寝ても寝足りない年頃の我ら中学生にとって、この教室は、夢の国に旅立つための条件が揃いすぎていた。
 かく言う俺だって今しがた夢の国から帰還したばかりなのだが。ガクッときて慌てて顔を上げたところ、目の前に広がっていたのがこの惨状だった。バクバク波打つ心臓と、投げやりに授業を押し進める英語教師の不憫さが邪魔をして、おいそれと二度寝も出来ない歯がゆさに頭を掻く。
 ノートに目を落とすと、滅茶苦茶な線で構成された現代アートが出来上がっていた。まずい。あいにく今日は消しゴムを忘れてしまったのだ。シャーペンに付属した微力な消しゴムでは、この燃えるアート魂はとても消火出来なさそうである。
 (……素直に借りるか)
 顔を伏せたまま隣の様子を伺う。机上に投げ出された二本の腕が見えた。左手のシャーペンは今は静止しており、ノートの半分ほど英単語が綴られている。「さあ寝てください」と言わんばかりのこんな状況で、この男は律儀に起きていたらしい。
 コイツ、こういうとこで変に真面目だよな。
 この山椎という男子生徒は、昨年の秋ごろウチのクラスへやってきた転校生だ。都会から来たと聞かされクラス中が浮き足立ったのも数日、話してみればなんてことはない、俺たちと同じただの思春期の中学生男子だった。釘バットを携えた金髪のヤンキーを想像していた俺は、栗色の髪のひょろ長い男子生徒が入ってきたのを見てすっかり拍子抜けして、一番に話しかけたのを覚えている。
 そんなわけで、コイツとは消しゴムの貸し借りくらいは出来る仲だと言うわけだ……と信じたい。
「山椎、消しゴム貸し──」
 教壇まで声が届かないよう注意深く囁く。が、続きは言えなかった。
 そこには、窓の外をぼうっと眺める物憂げな横顔があった。
 髪と同じく茶色がかったその虹彩は、窓から押し入った空の青を取り込んで、寂しげな枯葉色を称えていた。ふ、と薄く息を垂らした唇は、糸切り鋏の先端のように繊細で、細い吐息をちょきんと切ってしまいそうな鋭利さがある。首元の影が生白い頬と変なコントラストを成して、作り物とも生物とも言えない表情を浮き彫りにしていた。
 俺の乏しい人生経験では、その表情をピタリと言い表す言葉なんて想像もつかなかった。悲しみと言うには諦め過ぎているし、虚しいと言うには求め過ぎている。何より、目が、空の青に侵されて色を変えてしまったその目が、何も見ていない。
 喉元まで声が出かかる。なあ、今何考えてるんだよ。なんでそんな顔するわけ。無性に知りたくなって目線を追っても、そこには何も無い。ゆらゆら揺れる女子生徒のポニーテールも、上から下にゆっくりと沈む塵埃も、黒板にばかり話しかけている英語教師も、俺のノートの現代アートも、消しゴムも、俺も、お前も、春も五限も世界も、何も、何もかもがそこには無い。そこというのはお前の中だ。網膜に映った虚像なんかじゃない、お前の頭をぱっかり割った時に出てくるそれが知りたいのに、教えてくれるものは、ここには無かった。
 お前、いま、何見て――
「なに見てるの」
 突然、世界に声が響いて俺は現実に引き戻された。自分の色を取り戻した山椎の目が俺を見ている。口元には、いつものヘラヘラとした軽薄そうな笑みが浮かんでいる。
「えっち」
「……は?」
「そんなに見つめられたら集中できない」
 ガサガサと筆箱を漁ったあと、山椎が何かを投げ渡してくる。慌てて受け取れば、少し小さくなった消しゴムだった。
「今日一日使っていいよ──って言っても、もう終わるけど」
 その言葉を合図にチャイムが鳴り響いた。時間が動き出す。生徒たちが一斉に起き上がり、教室内が息を吹き返したように明るくなった。英語教師は早足に出ていった。アーだとかウーだとか、意味の無い呻き声と、パキパキ骨の鳴る音が満ちた。友人が何人か集まってきて、俺のノートを馬鹿にした。
「……いいんだよ、これは現代アートなんだから」
 苦し紛れに言うと騒がしい笑いが起こった。山椎の様子を伺うと、やっぱりみんなと同じように、でもどこか違う笑顔で笑っていた。
 俺は、この意味の無い線の集合体だけが、何かを証明してくれる気がして、消してしまえばお前の見ていた大事な何かまで消えてしまう気がして、ずっとそうしてお前の笑顔をぼんやり眺めていた。